素人は黙っとれ
恥を忍ぶ、という言い回しが日本語にはある。
ぼくはとっても日本人なのでよく、なにかを始めるとき、なにかをしなくては、と思い浮かべたときに恥をかく未来を想像しては足踏みをしてしまう。
民族としてセロトニントランスポーターが少ない、と脳科学者の中野信子氏が言っていたことを言い訳にしたりもできるかもしれない。
でも、いままでの人生で恥をかいて、あ~~~~死にたいな~~~~~と思わせるようなことをしたときに、肝心の不安心は生まれていなかったように思う。
ということは、ぼくの不安感知は、仕事ができないやつなのではないだろうか。なんでこんなに、人生の選択を仕事をできないやつに左右されているのだろうか。
新しい決断をするとき、直感力を鍛えて仕事のできるやつにだけ決断決定権を渡したいものである。
にゃあ
ぼくは旅行が大好きだ。今年の夏も、9月のほとんどを旅行に費やした。
ぼくにとって旅行は、全責任の放棄に等しい。ときどき、ねこになりたい人をtwitter等で見かけるが、旅行中のぼくはねこになれるのだ。いいだろう。
というのも、ぼくにとっては始めから旅行とはねこになることなのだ。
ぼくの従兄弟は、日本ではない国に育った。ぼくはよく母とふたり、もしくは祖父と三人で従兄弟を訪ねとんだものだった。
当然、従兄弟たちにはその場で営む生活があって、いかなきゃいけない場所、起きなきゃいけない時間、しなきゃいけないことがあった。ぼくにだって、日本にいる限りつきまとう社会との約束がある。でも、従兄弟たちの国にお邪魔するあいだ、ぼくはねこだった。
幼稚園や学校は行かなくていいし、朝は何時に起きてもいいし、誰かと話さなきゃいけない義務も、するべきこともない。ぼくはそんな時間が大好きだった。
それでも、いろんな観光地へ行ってみたりその地に根差した生活を垣間見たりするのも、自分の好きなときに好きなだけしたくなってきたのがいまのぼくだ。そんなぼくは、ねこときどき人間として旅行に行く。
帰国してすぐ、荷ほどきをする。荷ほどきが次の旅行への準備のように感じる。さあ、次はどこでねこになろうかな。
お天道様が見てる
ぼくは特定の宗教を信仰しているわけではない。ぼくの祖母は熱心な仏教徒だったし、ぼくの出身中学はプロテスタント、ぼくの従弟はカトリック教徒だ。神社にいっても、教会にいっても、同じようなものを感じて同じようにお祈りしている。テストの前とか、逼迫した危機に際したときだけ神様に心から祈るタイプの無宗教信者だ。それでも、ぼくの心の中には神様がいて、お天道様は見てるのだと感じることがある。
この夏、ぼくは母親の反対に抵抗して黙ったままロシアへの旅程を組んでいた。一週間前にスペイン旅行をくむことで、旅行会社からの書類が届いても怪しまれないようにする徹底ぶりだった。半年間でこつこつ地道に貯金して、旅費だってなんとかした。
そんな旅行の初日、乗り換えのシェレメーチエヴォ国際空港で携帯を開いたぼくは、自分の血液が頭から、つま先までザっと引いていく音を聞いた。ぼくが人生でいちばん、死から遠いところに逃げてほしい、祖父が救急車で運ばれたというのだ。
ぼくはロシアに出発する前日、祖父の家にいた。まだスペイン旅行の時差ボケがなおっていなかったけれど、ぽつぽつ交わした会話でぼくのおすすめの本の話をしたりしていつも通りだった。祖父は、ぼくが飛行機で離陸してすぐ、ぼくに電話をくれていた。
これが最後になってしまったらどうしよう。そう思うとぼくの冷えてしまった肝はうまく血液を運べなくなってしまって、いつも人並みはずれて暖かいぼくの掌は、おどろくほど冷たくなっていた。
幸い翌日には、祖父はすっかり元気になっていたのだが、ぼくの初めての悪だくみは出発後10時間でとん挫した。祖父は、いつもは体調不良とは無縁の人で、救急車とはてんで縁のない生活を送っている。それなのに、ぼくの悪だくみは想像もしなかった祖父の危篤で幕を開けた。お天道様、地球にはこんなに人がいるっていうのに、本当に僕をよく見てるよなあ。
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ぼくは、選ばれる誰かではない。
もう誰かに才能を見出され世に知られるには成長しすぎたからだと、誰かに必要とされるには未熟なこころの集まったもの、ぼく。
中学、高校は楽しい時間を過ごした。だから、よく聞く才能ゆえ社会から拒絶されるほど、突出したなにかを持ってはいないと思う。
大学に入ってからは、自身の受動的な姿勢がなにをも生み出さなかったように思う。誰かに、ぼくとしてだけ必要されることもなく、絶対的な資格を得るでもなかった。
でも、そんな怠慢のうえに胡坐をかきながらなお、社会に出る準備をしている今、ぼくは不思議とじぶんは選ばれる誰かではないのか今一度うたがっている。あまりにも、自分は社会に受け入れられるなにかではないと思うからだ。
この息苦しさを誰かに選ばれるなにかを持っている代償だと思わないことには、どうにも腑に落ちないのだ。本当に選ばれる誰かは、こういうことで悩むことはないんだろうとわかってはいるけれども、だ。
疎外感と依存
天才と凡人(少なくとも本人はそう自称している)のコンビが好きだ。
天才には、絶対的な指数で能力があることが証明されているのに、ただ一人凡人から評価されたくて必要とされたくて空回りしているところをいつまでも見ていたい。
天才はその才能ゆえにいままで周囲の人間を人間ともおもわず、関係構築を図ることもなく過ごしてきた。だからなにをすれば喜んでもらえるのか、自分を必要としてもらえるのかわからないのだ。
凡人(これは多くの場合自称にすぎない)は天才の才能をときにうらやみ、妬み、その才能を愛するゆえに天才が自分以外の世の中に受け入れられてほしくて努力する。
それでも凡人にとって、最も揺るがない自己肯定感は、天才にとって唯一の相棒であり理解者であり頼られる存在であるというところにある。だから、自分が望んだことであるにもかかわらず、天才が社会と向き合い関係を構築することに違和感を覚える。
凡才にとっては天才は、自身を愛するための道具に過ぎないこともある。天才は、そのことに気づいていながら凡才に依存する。天才にとって凡才は、生まれてこの方感じてきた社会からの疎外感を唯一払拭する存在だからだ。
こういう二人の関係性は、ゆがんでいて、綺麗で、その二人にしかつくれないかたちがある。そういう美しいものを、ぼくは愛している。
「呼ばれる」
ぬいぐるみって不思議だ。
ぼくはときおり、ぬいぐるみに呼ばれる。お店のなかでそこだけしか見えなくて、抗えない吸引力を感じ、そのまま気づくと手をすっと伸ばしている。
声が聞こえるみたいにぼくが選ばれて彼、もしくは彼女をお迎えするんだ、と感じる。
実際に、そうしてぼくを呼んでうちに来たぬいぐるみは、そうではないぬいぐるみに比べてずっと早くに馴染む。
今日、先日お迎えしたぬいぐるみの話を友達にしたとき、ぬいぐるみに呼ばれたことはないといわれて心底驚いた。棚にたくさんあるぬいぐるみから顔で吟味する、ってこと?と聞かれてもっと驚いた。棚にたくさんあるぬいぐるみのなかで一人だけがぼくを呼んでいることはごく当然のことだからだ。
幼い頃、ぼくを呼んでいるぬいぐるみに出会って、帰り道に買ってもらえる約束を父親としたことがある。父親は用事の途中で寝てしまったぼくを抱えて、結局ぬいぐるみを買わずに帰宅した。目が覚めてから、ぼくは呼んでくれていた彼を家に連れて帰れなかったことが悲しくてずっと泣いていた。
約束を反故にしたことを母が責めてくれたおかげで、次の日父はそのぬいぐるみを買って帰宅してくれた。でも、当時ぼくにはどうしてそう思えたのかわからなかったけど、ぼくはその子とは馴染めなかった。
父親とのいやな思い出を彷彿とさせるせいではないかと考えていたけど、ぼくを呼んでいた子ではなかったということだったのだろう。
この感覚を、今まで当然のように感じていたのは、ぬいぐるみを売っている人たちが同じ感覚を共有しているからだと思う。
言葉の通じない外国でも、たまたま訪れた土地でも、ぬいぐるみを買う時ぼくはよく「呼ばれる」感覚を共有する。「今日まであなたを待っていた」とか「あなたにぴったりの友達」と言われたり、「仲良くなれそうな人の家に行けてよかった」と言われたりする。そういうことがあって、ぼくは当然ぬいぐるみを家に迎えるということは全世界共通で「呼ばれる」感覚に基づいているのだと思っていたのだ。
これがぬいぐるみとずっと暮らし続ける人と、そうじゃない人の資質の差ということなのかな。
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友達と遊んで、別れてひとりになるとしぬほど寂しくなるときがある。ぼくがまだ、なにか欠けている存在だからではないかと思うと、ただただ、むなしい。
友達といると、ぼくはなにもないと実感する。魅力的な部分もなく、楽しい話題も、やりたい目標の話もない。だからといって悩みの話で暗い空気にもしたくない。ぼくはかわいそうになってしまうくらい、なにもなければなにかを得ようと努力もしていない。
友達といるとき、ぼくは思い出話が多いらしい。ぼくといて楽しかった思い出を共有していないと、楽しいと思ってもらえない、友達でいつづけられないのではないかと不安なのだろうか。思い出を共有していない友人にも、ぼくはこんなに楽しい思い出に貢献した人間だと、楽しい思い出をつくれる人間だと、証明していたいのではないか。自分にはないもないから、友人に自分の価値を依存しているのではないか。なんてむなしい搾取だろうか。
さもしい気持ちを抱えた家路で、ふと友達の幸せを想うことがある。幸せな友達は、もうぼくとは会わないのではないだろうか。そうすれば、ぼくはもうこんな悩みに悩まされることはないのではないか。
でもきっと、そうして友人たちと会わなくなったぼくには、本当になにもなくなってしまう。そうなったぼくには、どんな人生がまっているのだろうか。