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アイドルを応援する人はみな「他人に関心のある」人間なのか

ぼくは、アイドルが好きだ。

男性アイドルも、女性アイドルも、長年応援する好きなアイドルグループがある。

でもぼくは本当に仲のいい人以外には、そのことを告げない。

ファンの評価はそのままそのアイドルの評価につながってしまうことを警戒もしているし、知り合い程度の人にぼくの大切な内面に触れてほしくないのだ。

そんなぼくが「アイドルが好きだ」というと、ときどきこう返す友人がいる。

「よくそんなに他人に関心を持てるね。」

その言葉を聞くたび本当にぼくは他人に関心があってアイドルを応援しているのだろうかと疑問に感じる。

ぼく自身は、自分のことばかりを考えている人間だと思うのだ。

 

アイドルを応援している人がみな同じだとは思わない。

それなのになぜ「他人に関心がない」とアイドルを応援できないと思われているのだろう。ぼくは、アイドルを応援することは、自分のなかに彼らを招き入れ、自分の一部にすることだと思う。

 

例えばぼくは、応援しているアイドルに日常生活のなかで会いたいとは思わない。

矛盾するようだが、その人たちはぼくの応援するアイドルではないのだ。なぜそう感じるのだろう。

ぼくたちの見るアイドルたちは、仕事中で、多かれ少なかれ作られたイメージの中に合って、そしてそれは彼らのすべてではない。

仕事を100%追いかけるのはぼくには無理だし、きっとそんな無理をすれば義務感から心が離れてしまう。雑誌やテレビでの発言には彼ら以外の編集者の意図とか番宣とかいろいろと介在するものがある。ぼくらが得られるものは彼らのすべてではないのだ。

つまりぼくが応援するアイドルは、ぼくが受けとるものだけで構成されたぼくの心のなかにしかいないアイドルなのだ。

ぼくが応援してるアイドルはぼくのなかにしかいない。
ぼくが応援してるアイドルを職業にしてる人間がこの世のいるのはわかったうえで、それでもぼくが応援してるアイドルでありぼくがつらいときにぼくを救ってくれるアイドルは心のなかにしかいない。

この概念は一種宗教的で、神の存在は心の中に見いだされることにも似ていると思う。

だからぼくの応援してるアイドルと、現実世界にいきてるアイドルご本人は別だと感じるのだろう。
いま突然街中でアイドルご本人に会えたとして、ぼくは声をかけすらしないかもしれない。
だからアイドルは他人の話じゃなくて、ぼくの心のなかの話なんだ。