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心変わり

大学受験を控えていたころ、ぼくは本当に憂鬱だった。

進学校のはしくれに通っていたので、大学受験の結果如何では周囲の人間から見限られるのではないかと思っていた。

父親が学歴に信頼をおく人間だったこともあり、ぼくは父親の満足のいかない大学には進学できないことになっていた。

そのころのぼくは、大学受験という仕組みは理不尽で間違いだらけだと思っていた。今でも胸に抱き続けている部分もあるけれど、ぼくはこの仕組みを肯定するようになってしまった。自分の辛かった時期が終われば、もう関係がないからだろうか?

高校生の頃、すでに大学生だった先輩には「大人になるとこの仕組みが正しいと気づくから、いつまでも大人はこの仕組みを使うんだよ」と言われた。

ぼくは、それとは異なる理由で、この仕組みを肯定するようになったように思う。

先日、フランスの移民政策についてのドキュメンタリーを見ているときふとそのきもちをぴったりに表す表現にであった。

かつての移民の子供世代や、今はもう成功をつかんだ移民たちは、移民の受け入れに反対だという話題のなかでその表現は出てきた。

「最後のものがドアを閉める」

自分が享受した利益を、自分はしっかり受け取りきりたい。その利益が損なわれるなら、自分以降の人を受け入れたくはない。

これはぼくが大学受験について感じていることではないだろうか。

そう思うと、世の中の理不尽な仕組みが蔓延しつづけるのもうなずける。

高校生の頃、受験の結果で自分が自分ではなくなってしまうように感じた。つらくてすべてを投げ出したかった。それでもあの頃のぼくのほうがよっぽど、ぼくは好きだ。

高校生の頃のぼく、ごめんね。きみの嫌った大人にぼくはなったみたいだ。