ひとりごとですけども

ひとりごとをひとり呟く場所

だれとどこにいつどうやっていくらかけてなにしにいくか

旅行の計画をたてるときぼくはいつも家族がほしいなと思う。

予算とかいきたい場所について忌憚のない意見を交わし、それぞれの融合するなかにベストを探す。旅行に一緒に行くためにはどんな意見も受け止めあえる信頼関係が絶対必要条件である。

大学以降になかよくなった友人には、なにも気を使わずにそういうことができる。類は友を呼ぶというか、彼らは嫌なことは嫌と主張できるタイプなので。

大学でできた友人が今までの人生における友人と比べて特別だというわけではない。でも長く友達でいればいるだけ、友人のことが大切になるぶん、旅行に誘いづらいなと感じる。

嫌な時に嫌だと主張することを重んじるきもちと、大切に思う友人の願いを叶えてあげたいきもちがぼくのなかには常に存在するからだろう。

ぼくは友人がぼくといるときなにかを我慢したり、耐えたり、惰性で一緒にいてほしいとは思わない。お互いがお互いを好きで、一緒にいる時間を求めていて友人でいたい。

でも同時に、ぼくが少しいやなところに目をつむって友人が楽しく過ごせればそれでいいやというきもちがある。そしてこれは、推測にすぎないが相手もぼくのことを同じくらい大切にしてくれていると感じる。

日常のなかで遊びに行ったり、近場に遊びに行くとき、たいていぼくが目をつむったことはプラスに働く。知らなかったけどすごく楽しかったとか、提案にのっかってよかったと思う。同じくらい、いやもしかしたらそれ以上にぼくの提案も友人たちに受け入れられ、楽しく過ごせていると思う。先入観からの拒否感を無視することをどんな結果になったとしても楽しめると思うのだ。

でも旅行となると動く金額の大きさが違う。たとえ一緒に行った友人が「始めは嫌だなと思ったけどこの提案をのんでよかった」と結果的には思ってくれたとしても、ぼくは友人にリスクをとらせることはできない。

そして趣味ではなく環境で友人になった長年の友人たちとは、たいがい欲望がかぶらないのだ。

こういうせん無い事をつらつらと考えるたび、予算の相談もあけっぴろげにできてどんな意見も発して受け止めてくれる家族がほしいなと思う。

日本の旅行会社はたいてい一人での参加のほうが旅行は高くつくし、個人でプランを組むにしてもホテルの一人部屋料金を取ってくる。感想を分け合えて喜びが共有できる誰かと旅行に行けば楽しい上にお得でもあるのだ。

家族がほしいと書いたが、ぼくには母も父もいる。幼い頃、ぼくは親戚が住んでいたドイツにしょっちゅう母と二人通っていた。だからぼくにとって海外旅行とは母と二人のんびり異国で過ごす贅沢、という印象が強い。

それなのに最近では母に金銭的に甘え続けることにも抵抗があり(まだ二人分の旅行代を出せるほどの経済力はぼくにはないのだ)、なんとなく母を旅行に誘いづらくなってしまった。ぼくは母にとって庇護対象であって、同じ立場ではない家族なのだろう。

だからぼくは、対等にお金を出し合って旅行に行ける家族がほしいのだ。家族ができたらきっと新たに悩むこともたくさんあるのだろうけれど、結婚している人に会うたび、ぼくは思うのだ。この人は海外旅行に誰と行くかもう迷わない贅沢を知っているんだな、って。