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ぼくはおもしろいものがすきだ。
おもしろいものって、どのポイントをおもしろいと思うのか、どうして面白いと思うのか、わからないところもおもしろい。
起こったことに対して、感じたことの言語化もできていないまま、何年もたってしまった経験もある。
大学三年の頃、ドイツで友人の家に居候していたときのこと。
お財布の中に、珍しく大きめの札をいれたぼくは、お金がたりなくなるような恐怖もなくルンルン外出した。
トラムで移動しようとバス停にいたぼくは、全く知らないおじいさんからニコニコと微笑みかけられた。
そのときなんだか気味が悪く感じてしまい、ぼくは目を合わせないようにしてしまった。
トラムがきて乗り込んだぼくは、運賃を払う機械が札を受け入れていないことに気づき軽くパニックになった。
ドイツにいたのは友人の家があったからで、ドイツ語が堪能なわけではないので誰にも自分の状況も説明できなかったのだ。
そのとき先のご老人が、なにもいわずぼくの運賃をはらってくれた。
そのとき、ぼくはきづいた。ご老人の腕が一本しかないことに。
ぼくは本当に自分を恥ずかしく思ったし、その後の記憶が曖昧だ。人生で一番、何を感じたのか言語化できないような出来事だった。
こういうことがあるって、おもしろい世界だなと思う。
向き合うとちょっとこわい
ぼくはブログというものに少し、恐怖心がある
幼少期に知人がしているブログを教えてもらったことがあった。
コメントをつけることが、公衆の面前での公開された会話だとは知らず、ぼくは記事に話しかけるようなコメントを幾度もつけていた。
ある日その人に会ったときに、そのコメントについて、いつも的外れだと指摘された。
まだ親に頼んでしかコメントをつけてもらうことができない幼い子供だったのだから、きっと本当に的外れだったのだろう。
それでもなお、ぼくはとても傷ついてしまった。
次の記憶は小学生のとき
犬を飼い始めてすぐに、ぼくはブログで彼女のことを書くことにした。
数か月間、毎日小学生なりに真摯に楽しく記事を書いていたけど、ある日突然そのすべてが消えてしまった。
簡単な誤操作で、すべての記事を消してしまったのかもしれない。いまでも原因はわからない。
それ以来、少し、ブログに恐怖心がある
四か月間更新しなかったことが、ぼくとぼくのブログに対する恐怖心にどういう影響があるのかよくわからない
けど、たぶん、そんな真剣に重くとらえないというきもちになれた気がするので
またゆるりとかけていければいいとも思うのだ
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夜道を家に帰る
その道中で嗅ぐ、洗濯機をまわしたとわかる換気扇のにおいがすきだ
お風呂を焚いたときの換気扇のにおいもすき
知らない誰かの暮らしのにおいだけど、ぼくにも優しい、懐かしい不思議
たまに、ぼくはもう人生においてもうまともにはなりえないと感じる
それは絶望に似ているけど、深刻さにはどこか欠けていてぼくはまだ絶望はしない
急に、帰る場所がないことに追い詰められる夜がある
でも絶望じゃない
そういう夜に、家に帰る道でこのにおいをかぐのが大好きだ
知らない誰かの、帰る場所とか、まともさとか、優しさとかを少し分けてもらう
絶望はしない、そこまで先を見通せない
ぼくが家で一人、洗濯機をまわして、お風呂を焚くとき
誰かが外でそのにおいをかいで、なにかを受け取れているとしたら、すてきだ
宇宙の歌姫
シェリル・ノームが好きだ。でもぼくは、マクロスのことは何も知らない。
こういう風にいうと、なんとなくファンと名乗るのは違う気がして誰にもシェリルのファンだといえないでいる。
ぼくの中では、昭和のアイドルや平成初期の歌姫たちと同列に、”時代を席巻していたころは知らないけど曲は知っている歌姫”としてシェリルノームは存在している。
シングルだけじゃなくてアルバム曲も聞いているし、顔ももちろん認識できている。でも、マクロスを見てさらに彼女を知りたいかというとそうでもない。恋愛事情や、人生の辛かったことを歌以外の手段では受け取りたくないのだ。ぼくの中では彼女のうたは彼女の自己表現であり、伝えたいことはぜんぶそこに詰まっているのではないかと思うのだ。
先日、一番くじに彼女のフィギュアが登場すると知ってまじまじと彼女自身が好きなのか、彼女を歌手として応援しているのか考えるきっかけになった。
こういう細かいひとつひとつのことにこだわってじっくり考えていることって、きっと自分の好きなこととか自分の考え方の輪郭を明らかにしてくれる。
誰彼かまわず聞かせるような偏屈人間にはならないよう、こういう場所でだけ考えていければいいのだろうな。
プレイリストのはなしごたび
先日、友人ととても共感しあう話題があった。初対面の人や、よく知らない人と盛り上がるには少しナーバスで価値観の核に触れるような話題だった。思い返してみれば、生徒として学校に通っていた頃は、そういう話題を出すことに対して全く抵抗がなかったように思う。どうしてだろうか。
中学、高校の頃は極めて限定された社会にぼくらは生きていた。そこは、良識ある大人たちに守られた箱庭で、ぼくらは社会のなんたるかを全く見ずに過ごしていた。
守られた空間で、ぼくらは価値観の話をたくさんしたしお互いを尊重しあって生きていたと思う。ときに戦い、ときに受け流すことで共存を図っていた。守られた空間を飛び出した今となっては、確固たる地盤があることで生まれる気持ちの余裕がお互いにあってこそだと思う。
プレイリストのはなしをするとき、ぼくはどのジャンルの話をするかということを限定しないし、他の人の目を意識することがほぼない。しかし先日、音楽の趣味からステレオタイプとしてその人を判断する要素になりえるのであまり話をしないという人に会った。こういう話をするとぼくが思うよりも、この社会は価値観で分断されているのかもしれないと思うのである。
〇Twenty-three / IU
日々対立する自意識を適格に軽やかに歌う曲。IUがアイドルではなくアーティストだと知らしめる作詞力。共感する風や突き放す風でもない、不思議な距離感がリズムと相まってMVの世界観にぴったり。
〇POP/STARS / K/DA
K-pop×洋楽×ゲームCGという掛け算の曲。世界観がしっかりしていて多国籍言語で進むのが近未来的で好き。
〇Heart Attack / LOONA/Chuu
恋愛に一生懸命で一直線な女の子のうた。かわいらしい声質と、幼げな顔つきが相まって初恋っぽさが満載。MVでは相手が女の子なのも今っぽいし、可愛さを助長していると思う。パフォーマンス時振り付けの最後に、胸を打たれて倒れるところも可愛い。
プレイリストのはなしよたび
みたびの次は、よたび、というらしい。久々プレイリストについての話をしようと思ったら、タイトルでふと考え込んでしまった。
生まれてこの方日本語と生きてきても、いざ調べてみると知らないことばかりで面白い。ぼくは人の書いた文章を読むときでも、ひとつかふたつ知らない単語があるくらいの文章を好き好んで読んでいるように思う。
でもその反対に、どんなに心惹かれて読んでいた文章でも一つ単語の使い方が間違っていると、そこにとらわれて気もそぞろになってしまうことがある。
りゅうちぇるが息子の誕生に際して書いた記事も、フィードバックとフラッシュバックの誤用が気になりすぎて、一週間くらい柄にもなくおせっかいなメッセージを送るか悩んだほどだった。
同時に、ぼくは自分の書いた文章に間違いがあれば指摘してほしいと思っている。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥である。しかしまあ、正しい日本語の使い方なんて時代とともに変化するだろうし、共同体の中だけで使われる使い方もあるだろう。
いやいや、プレイリストのはなしに戻ろう。上記の通り日本語を気にするぼくが、耳あたりの良さだけで選ぶプレイリストである。
〇催眠術 / 女王蜂
聴いていると自分がJKバンギャだったのではないかと錯覚する一曲。文章の切れるところと音の切り方が心地よくて好き。
〇NOROSHI / 関ジャニ∞
未だあの脱退にから目をそらし何もなかったことのように過ごしながら、それでも聞くたびもうこの7人では歌わないのだと再確認させられる曲。力強く、背中をたたいて、横に並んでバカをして、決めるときは誰よりかっこいい。そんな7人にぴったりの曲。
〇兄弟船 / 鳥羽一郎
ぼくの実生活とかかわりが一切ないので共感が一つもないところが好き。歌いだしの波の谷間に命の花、がおしゃれ。夢の揺り篭とか、兄弟鴎なんて言葉の選び方もおしゃれ。美しい日本語で熱めの演歌なのが面白くて好き。
前半はプレイリストのはなしではなかったけれども、文字数も達成感もいい感じなので今日はこの辺で。
やっぱり好きな歌について誰に言うとでもなくつらつら話すのは楽しいな。
あなたのためだけ、カーテンコール
友人と舞台を見に行くのが楽しい。
舞台を見るのがそもそも好きだし、一人で行動するのも好きだ。しかし友人と舞台を見るのがいちばん楽しい。
舞台が終わったあと胸に抱く、ふわっとした言葉にならない感想が、友人と会話する中で言語として輪郭を表していく過程が好きだ。
自分のなかにある感情の輪郭がわからないまま人の言語化された感想を読んでしまうと、ぼくの中にあったものが引っ張られてしまう。そうなってしまうと、ぼくにとってその舞台との出会いがあまり楽しいと思えなくなってしまう。
ぼくはパンフレットも、ネタバレありの感想も、原作も一切インプットせず一度舞台を楽しみたい。そのうえでもう一度、今度は友人と一緒に知識をインプットしてから楽しみたい。
でもそう思い通りにはいかないところが、舞台の大好きなところでもあるのだ。難しい。舞台との出会いは一期一会。そこが素晴らしくもあり、また見ることができなかった舞台への憧憬を底知れないものにさせてしまう。
一緒に観劇する人によって、左右されてしまうのも舞台のはかないところだ。1000人が観劇している時、1人でもマナーを守らない人間がいると、999人にとってその舞台はもうだめな思い出になってしまう。そして同時に劇場へ行く人間を選ぶことはできないのだ。
ぼくは歴史の小話が大好きなのだが、かつての統治者、例えばエリザベス一世などが観劇を好きだったということを想うといつも「時間も場所も一緒に観劇する人間も自分の思い通りならそりゃ最高だろうな」と思わずにはいられない。
願わくば、いつの日かぼくだけのための舞台を二回、思うようにみたいものである。