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いちシュテルンビルト市民として思うこと

突然だけど、いちシュテルンビルト市民として思うことがあり筆をとる。

 

ぼくはシュテルンビルト市民だ。

アニメシリーズの放送開始のとき、初めてオリオンをなぞるオープニングを見たとき、本当にドキドキして一気にこの作品を大好きになった。

それからずっと、いちシュテルンビルト市民として彼らの活動を応援し、彼らは今もシュテルンビルトでヒーローとして生活しているように感じている。

 

シュテルンビルト市民として長くの時間を過ごしているのには、ひとつの衝撃的な二次創作小説が関係していると思う。

恋愛の要素は一切ない、ただただ実際に起こりえるかもしれないシュテルンビルトの悲劇を描いた作品だった。

当時、NEXTであるヒーローたちのかっこよくて特別で一般市民とは違う存在の、光の部分ばかりに目を向けていたぼくは大変衝撃を受けた。

ヒーローであるまえにNEXTであり、NEXTであるまえにひとりの人間である彼らを感じ、彼らはぼくの中で人間になった。

そのときからずっと、シュテルンビルトに思いをはせるときにはその小説の存在を想う。

 

そして、ぼくは障がい者に関する情報に触れるときもまた、シュテルンビルトに思いをはせる。

NEXTの闇の部分に障がい者の方との共通点を感じているのだと思う。どういうことなのか、自分でもわかりきれていないなりにまとめてみることにした。

NEXTは、能力を持っている。ときにその能力はほかの人の役に立つこともあるし、人の命を救うこともある。

しかし多くの能力は、何のためにもならない。アニメシリーズの中でもアカデミーを訪れた虎徹さんが生徒たちの能力があまりに小さくてヒーロー向きではなくて絶句するシーンがあった。

このシーンを見たときに感じたしこりは、障がい者の方の情報を目にするときにもたまに出会う。このしこりが闇の部分であり共通点である。

ぼくらが触れる障がい者の方に対する見方は、ときに「どういう面で役に立つか」とか「どういうとき意義を持つのか」といったゆがんだ価値観に基づく。

こういった見方は、外野から見た勝手な意見だと思う。すべての人間には生きる権利があるしその人生なにをしたっていい。社会に貢献したいならすればいいし、したくないなら生きているだけでいいはずだ。

生きているだけでいいのに、NEXTや障がい者の方には「社会の役に立つ」ことを強要するように感じる。

劇中で登場するアカデミーにいた小さな能力のNEXTたちは、ヒーローになろうとしていた。「社会の役に立つ」NEXTであろうとしているように見えた。

本来なら、NEXTだって、なんにだってなれるしなんでも好きなことを仕事にして生きていけるはずだ。

しかしシュテルンビルトにいるNEXTは、そしておそらくあの世界に生きるNEXTは(ヒーローのなかにもシュテルンビルト以外の出身者がいる)ヒーローになることを求められ、社会的圧力を感じ生きている。

具体例としてドラゴンキッドこと、パオリンはまだ子供とよばれる年齢でありながらシュテルンビルトでヒーローとして生きている。

彼女の能力は雷に関係し、人間に害をなすこともできる攻撃性のある能力だ。そんな能力を抱えた少女は、故郷では受け入れられなかったのではないだろうか。幼い少女は、親元を離れてひとり、ヒーローになる道を選んだ。パオリンはキャラクターソングで「さみしくないって言ったらウソだけど」と歌っている。

 

ヒーローを見るとき、彼らが輝きながら市民を助けるとき、そして彼らが人間としてヒーロー同士で交流しているところを見るとき、ぼくはそういう背景を想って泣いてしまう。ぼくはこの作品が大好きで、大好きで、そして闇を感じては泣いてしまう

未来の話だけれど、ぼくは子供に絶対に「TIGER&BUNNY」を見せると決めている。

そしてこの話をする。「深読みが気持ち悪い」といわれるかもしれない。「そんなこと考えずに楽しめ」といわれるかもしれない。

それでもぼくは子供と一緒にこういう話をしたいのだ。