旅行と自意識
ぼくは旅行が好きだ。
旅先でなにを目的とするでもなく時間を過ごすのも大好きだし、そういう時間を持ち続けることが人生のよろこびになると思っている。
ぼくは、認知につかれているのだと思う。
ぼくにとって認知は、責任を伴う。ぼくは大学を留年したのだが、5年目の誰も知り合いがいない期間、驚くほど気楽で快適に大学に通えた。
これはぼくの自意識と深いかかわりがあると思う。ぼくの自意識は高い。誰かと一緒にいるとき、相手がその時間を楽しいと思うかはぼくに責任があるように感じる。
気心知れた友達ならいざ知らず、初対面や顔見知り程度の趣味嗜好や笑いのツボも知らない人と会うかもしれない可能性は、ぼくにとってずっとこころの重しになっていたのだろう。
最近になってようやく、顔に張り付けた笑顔と当たり障りのない会話でそういった場面を受け流すべきと学んだが、ぼくにとってそれはとても高度な技術だ。
ぼくにとって、知らない人といる時間は、観客の顔が見えないお笑いショーのようだ。必要もないのに、ぼくの中身を守るためにと、ぼくはすぐに責任を負おうとする。
独りよがりでむなしい交流につかれたぼくは、認知されることにどんどん嫌気がさす。
だからこそスーツケースに荷物を積めて、飛行機でだれもぼくをしらないところへ行く。
行先はどこでもいい、矛盾しているけど友達がいるところならもっといい。
友達がぼくを認知することは怖くない。友達は、ぼくを受容してくれていると言葉で示してくれるからだ。
ぼくは、言葉でこころを示すことを最上とする文化のなかで育った。
その文化は受け入れられる人も受け入れられない人もいる。受け入れなくてもいいから理解して干渉しあわずいれたらいいと思う。
そういうことをつらつらと考えたりしながら旅に出たい。誰の顔を忘れてもよくて誰にでも質問してよくて誰にでもNOといっていい。
誰でもないぼく。ぼくという存在は消え、旅行者Aとして誰の記憶にも残らない時間が生まれる。
ぼくはその時間を愛している。スーツケースを積めている時間は苦手だから荷物は最小限。
飛行機にのって列車に乗って、ぼくは誰も知らないぼくになる。
ああ、今日も今日とて旅に出たい。