ひとりごとですけども

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「呼ばれる」

ぬいぐるみって不思議だ。

ぼくはときおり、ぬいぐるみに呼ばれる。お店のなかでそこだけしか見えなくて、抗えない吸引力を感じ、そのまま気づくと手をすっと伸ばしている。

声が聞こえるみたいにぼくが選ばれて彼、もしくは彼女をお迎えするんだ、と感じる。

実際に、そうしてぼくを呼んでうちに来たぬいぐるみは、そうではないぬいぐるみに比べてずっと早くに馴染む。

今日、先日お迎えしたぬいぐるみの話を友達にしたとき、ぬいぐるみに呼ばれたことはないといわれて心底驚いた。棚にたくさんあるぬいぐるみから顔で吟味する、ってこと?と聞かれてもっと驚いた。棚にたくさんあるぬいぐるみのなかで一人だけがぼくを呼んでいることはごく当然のことだからだ。

幼い頃、ぼくを呼んでいるぬいぐるみに出会って、帰り道に買ってもらえる約束を父親としたことがある。父親は用事の途中で寝てしまったぼくを抱えて、結局ぬいぐるみを買わずに帰宅した。目が覚めてから、ぼくは呼んでくれていた彼を家に連れて帰れなかったことが悲しくてずっと泣いていた。

約束を反故にしたことを母が責めてくれたおかげで、次の日父はそのぬいぐるみを買って帰宅してくれた。でも、当時ぼくにはどうしてそう思えたのかわからなかったけど、ぼくはその子とは馴染めなかった。

父親とのいやな思い出を彷彿とさせるせいではないかと考えていたけど、ぼくを呼んでいた子ではなかったということだったのだろう。

この感覚を、今まで当然のように感じていたのは、ぬいぐるみを売っている人たちが同じ感覚を共有しているからだと思う。

言葉の通じない外国でも、たまたま訪れた土地でも、ぬいぐるみを買う時ぼくはよく「呼ばれる」感覚を共有する。「今日まであなたを待っていた」とか「あなたにぴったりの友達」と言われたり、「仲良くなれそうな人の家に行けてよかった」と言われたりする。そういうことがあって、ぼくは当然ぬいぐるみを家に迎えるということは全世界共通で「呼ばれる」感覚に基づいているのだと思っていたのだ。

これがぬいぐるみとずっと暮らし続ける人と、そうじゃない人の資質の差ということなのかな。