ひとりごとですけども

ひとりごとをひとり呟く場所

疎外感と依存

天才と凡人(少なくとも本人はそう自称している)のコンビが好きだ。

天才には、絶対的な指数で能力があることが証明されているのに、ただ一人凡人から評価されたくて必要とされたくて空回りしているところをいつまでも見ていたい。

天才はその才能ゆえにいままで周囲の人間を人間ともおもわず、関係構築を図ることもなく過ごしてきた。だからなにをすれば喜んでもらえるのか、自分を必要としてもらえるのかわからないのだ。

凡人(これは多くの場合自称にすぎない)は天才の才能をときにうらやみ、妬み、その才能を愛するゆえに天才が自分以外の世の中に受け入れられてほしくて努力する。

それでも凡人にとって、最も揺るがない自己肯定感は、天才にとって唯一の相棒であり理解者であり頼られる存在であるというところにある。だから、自分が望んだことであるにもかかわらず、天才が社会と向き合い関係を構築することに違和感を覚える。

凡才にとっては天才は、自身を愛するための道具に過ぎないこともある。天才は、そのことに気づいていながら凡才に依存する。天才にとって凡才は、生まれてこの方感じてきた社会からの疎外感を唯一払拭する存在だからだ。

こういう二人の関係性は、ゆがんでいて、綺麗で、その二人にしかつくれないかたちがある。そういう美しいものを、ぼくは愛している。

「呼ばれる」

ぬいぐるみって不思議だ。

ぼくはときおり、ぬいぐるみに呼ばれる。お店のなかでそこだけしか見えなくて、抗えない吸引力を感じ、そのまま気づくと手をすっと伸ばしている。

声が聞こえるみたいにぼくが選ばれて彼、もしくは彼女をお迎えするんだ、と感じる。

実際に、そうしてぼくを呼んでうちに来たぬいぐるみは、そうではないぬいぐるみに比べてずっと早くに馴染む。

今日、先日お迎えしたぬいぐるみの話を友達にしたとき、ぬいぐるみに呼ばれたことはないといわれて心底驚いた。棚にたくさんあるぬいぐるみから顔で吟味する、ってこと?と聞かれてもっと驚いた。棚にたくさんあるぬいぐるみのなかで一人だけがぼくを呼んでいることはごく当然のことだからだ。

幼い頃、ぼくを呼んでいるぬいぐるみに出会って、帰り道に買ってもらえる約束を父親としたことがある。父親は用事の途中で寝てしまったぼくを抱えて、結局ぬいぐるみを買わずに帰宅した。目が覚めてから、ぼくは呼んでくれていた彼を家に連れて帰れなかったことが悲しくてずっと泣いていた。

約束を反故にしたことを母が責めてくれたおかげで、次の日父はそのぬいぐるみを買って帰宅してくれた。でも、当時ぼくにはどうしてそう思えたのかわからなかったけど、ぼくはその子とは馴染めなかった。

父親とのいやな思い出を彷彿とさせるせいではないかと考えていたけど、ぼくを呼んでいた子ではなかったということだったのだろう。

この感覚を、今まで当然のように感じていたのは、ぬいぐるみを売っている人たちが同じ感覚を共有しているからだと思う。

言葉の通じない外国でも、たまたま訪れた土地でも、ぬいぐるみを買う時ぼくはよく「呼ばれる」感覚を共有する。「今日まであなたを待っていた」とか「あなたにぴったりの友達」と言われたり、「仲良くなれそうな人の家に行けてよかった」と言われたりする。そういうことがあって、ぼくは当然ぬいぐるみを家に迎えるということは全世界共通で「呼ばれる」感覚に基づいているのだと思っていたのだ。

これがぬいぐるみとずっと暮らし続ける人と、そうじゃない人の資質の差ということなのかな。

友達と遊んで、別れてひとりになるとしぬほど寂しくなるときがある。ぼくがまだ、なにか欠けている存在だからではないかと思うと、ただただ、むなしい。

友達といると、ぼくはなにもないと実感する。魅力的な部分もなく、楽しい話題も、やりたい目標の話もない。だからといって悩みの話で暗い空気にもしたくない。ぼくはかわいそうになってしまうくらい、なにもなければなにかを得ようと努力もしていない。

友達といるとき、ぼくは思い出話が多いらしい。ぼくといて楽しかった思い出を共有していないと、楽しいと思ってもらえない、友達でいつづけられないのではないかと不安なのだろうか。思い出を共有していない友人にも、ぼくはこんなに楽しい思い出に貢献した人間だと、楽しい思い出をつくれる人間だと、証明していたいのではないか。自分にはないもないから、友人に自分の価値を依存しているのではないか。なんてむなしい搾取だろうか。

さもしい気持ちを抱えた家路で、ふと友達の幸せを想うことがある。幸せな友達は、もうぼくとは会わないのではないだろうか。そうすれば、ぼくはもうこんな悩みに悩まされることはないのではないか。

でもきっと、そうして友人たちと会わなくなったぼくには、本当になにもなくなってしまう。そうなったぼくには、どんな人生がまっているのだろうか。

ジャンプの連載の話ほど年代が特定されるものってない

中学生くらいのときに好きになったものって、一生身体の中に残っているような気がする。

中学生のぼくは、ジャンプでREBORNとかBLEACHとか銀魂とか、今なお新しいコンテンツを発信し続けている連載を読んでいた。

銀魂の連載もいよいよ終わると聞いて、中学生のころ毎週ジャンプを友達と回し読んでいたぼくにさよならするような気持ちになった。実際は、きっともう二度と戻らない青春として、ぼくのなかにずっと残っていくのだろう。

先日BLEACHで好きなキャラクターを聞けばだいたいその人がわかる、という旨のツイートを読んだがこれ以上ない共感を覚えた。

ぼくは、吉良イヅルのことがとても好きだ。彼の生い立ちに起因するであろうひん曲がった陰湿っぽい性格や、自分に自信がないけどプライドは高いから誰かに信奉してしまうと取り返しがつかなくて、職務ではなく信じている上司にだけ忠実なところも好きだ。こころのなかに残酷なほどなにも知らない冷徹な子供と、卑屈さですべて覆い隠してにたりと笑う情に厚い大人が共存しているところが好きだ。

イラスト集の発売に際して、キャラクターのイメージソングが公開された。吉良イヅルのために選ばれた歌は「あなたは海の底」これ以上イヅルにふさわしい歌などあるだろうか。しかも女性ボーカルの失恋ソングだ。じめっとしていて聞くだけで、ちょっとひいてしまう、あまりにもふさわしい曲だと笑ってしまった。

ぼくは、もう吉良イヅルのことで一喜一憂したりする中学生ではない。それでも、ぼくの中には確かに彼と、彼のことを思ってワクワクしたりハラハラしていたあの特別な時間があるのだ。

half of my heart is in

お題「行きたい場所」

 

ときどきふっと、意識が遠くの地に飛んでいくことがある。

旅行だったり住んだことのある地でぼくの記憶のなかにある風景。不思議なことに、そういうとき思い出すのは著名な観光地とか名前のついている場所ではなくて、街角のKIOSK前の人場だったり、遊歩道のなかの噴水だったりする。

海外旅行に行く目的は人それぞれで、観光地を目いっぱい回りたい人もいるだろうし、俗世間のしがらみを捨てゆっくりしたい人もいる。

ぼくは後者に属する人間で、もっぱらそういう名もない場所でだらだらとした時間を過ごしたくて海外に行っている。気に入った場所の記憶はふわふわと小さなかけらとして頭の中にあるのだろう。疲れたときや、寝る前にたまにふっと思い出す。記憶のなかの風景はぼくをまた新しい旅行にいざなう。

名前がわからないからGoogle mapでも探せない、もしかしたらもう二度と行けないそんな場所に、ぼくのこころはある。今日も今日とてなにをするでもなしに夕暮れを眺めたり、散歩中の犬をなでたりする。そういう場所にぼくはいきたい。

プレイリストのはなしみたび

最近、また新しい音楽のインプットに関心が向いている。

今日はリハビリもかねて、最近のプレイリストのはなしを。

 

〇WHISTLE / BLACKPINK

遅ればせながらBLACKPINKを聞き始めた。最初に聞いた曲があまり好みではなかったことで敬遠してしまっていたのだが、ビジュアルとコンセプトが好きなので絶対に好きな曲があるはずと再び挑戦し発見。事務所の特徴でもある歌唱力とビジュアルの強さが媚びていなくて好き。

〇No Hay Nadie Más / Sebastián Yatra

アメリカや全世界規模に名前の挙がるスペイン人アーティストはどうしても情熱的でダンサブルなナンバーに移行しがち。スペイン国内ではやっている曲に限定して調べるとゆったりしていて少し陰のあるラブソングが聞けて好き。ミュージックビデオも孤独だけど光のある自然のなかでとられていて好き。

〇Get Naked / Coming Century

いよいよ不惑を迎えられるアラフォーアイドル三人の楽曲。アルバム全体が最高だったのはもちろん、この曲はアイドルというファンから選ばれ消費される立場でありつづけるこの人たちにしか出せない色気のある曲で好き。あれだけ踊れる人たちが踊らない曲を歌っているのも好き。

〇Hey Baby / J. J. Cale

大好きな映画の挿入歌。DVDのメニュー画面でずっと流れている曲なのでその印象が強い。映画のストーリーも相まって、だれがわかってくれなくても自分が幸せならいいやとぼくの世界をやさしく包み込んでくれる曲。肩の力を抜いてくれる曲。

〇I Know What You Did Last Summer / Shawn Mendes & Camila Cabello

勢いのある若手二人のデュエット。声を楽器のように使うイントロの掛け合いが好き。SNS世代の恋愛の歌は、言われてないけど知っていることを抱えている曲が多いように感じる。また十年ほど時間がたてば傾向が変わったりするのだろうか。

〇虹 / Aqua Timez

先日初めて生で演奏を聴く機会があった曲。演出もあいまって、とても思い出深く印象に残った。当時ドラマを見ていたわけではなかったがAqua Timezはぼくの学生時代にちょうど身の回りにあったバンドで解散してしまうのは感慨深い。これからもこの曲を聞けばあの日を思い出すのだろうな。

〇Feelings / Maroon5

違う曲目当てで借りたアルバムでぐっと心をつかんだ曲。彼の高い音の出し方とシャウトの仕方が好きなので、ずっと好きなパートが続いているような曲。音のかぶせ方、コーラスの入れ方が好き。

 

夏の夜なべにしてはいい文字数では。それでは今日はこの辺で。

ときどき、このブログが自分の首を絞めるのではないかという考えがふと首をもたげる。

インターネットに投稿したものは、電子の海に永遠にさまよい続けるわけである。ぼくの書いた文章はぼくの手を離れ、ふわふわと漂う。ぼくは電子の海の存在を忘れ、日々の生活に忙殺される。

そしてある日突如、過去の自分の文章について糾弾される。そういう未来が起こりうると考えると思うとゾッとする。

高校生の頃自分の思うことを書き留めていたノートを見返すとまるで別人のように感じるほど考えが変わっていることがある。ぼくの考えは周囲に影響されて絶えず変化するのだから、当然だけれども。それでもぼくの言葉は、ぼくの言葉としてぼくが責任をもつものとされる。

ぼくにとっては、ノートにつらつら文字を書き連ねるあの言葉もブログにカタコトと打ち込むこの言葉も、同じように責任をとるものではないのだけれどなあ。